黒門・太鼓門
黒門
一の門
本丸へ入る重要な入り口です。
この門を入るとかつては本丸御殿がありました。本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。
門の屋根を見上げると歴代城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。これは昭和25年~30年に行われた天守解体修理の際、まだ使える瓦を保存して再利用したからです。その瓦を昭和35年、黒門一の門復興の折に使用したため、いろいろな城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。
この黒門の設計図がなかったため、設計を依頼した市川清作氏が、名古屋城の渡り櫓門を参考にしたと言われています。
二の門と枡形
内堀を渡ったところにある門で、高麗門です。平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元されました。この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。
太鼓門
太鼓門枡形の一の門をいいます。江戸時代は倉庫として使用されていました。明治初年に破却されましたが、平成3年から発掘調査、同4年に石垣の復元を完了し、同11年に土台石の形に合わせて柱を削り、太鼓門が復元されました。樹齢400年の檜、梁は140年の松を使用しています。
太鼓門の建設年代は明確ではありませんが、石川氏の時代には完成していたと考えられています。門台南石垣の西土中から金箔瓦が発見され、市立博物館に展示されています。
門の東側床に石落がついています。当時は通常朝6時に開け、夕方6時に閉めていました。
太鼓楼
「文化五~天保六年頃松本城下絵図」の一部太鼓門北側門台上には太鼓楼がありました。鐘と太鼓が備えられ、時を知らせる等、家臣に情報を伝える役割を果たしていました。この楼があったので門を太鼓門と呼びました。
玄蕃石
松本城最大の石で、重さ約22.5トン(玢岩/ひんがん)あり、松本の東、岡田か山辺の石といいます。松本城を築城した石川玄蕃頭康長が運ばせた巨石で、運搬の苦労を物語る伝説が伝えられています。康長の名にちなんで玄蕃石と呼ばれています。