本丸御殿跡・二の丸御殿跡
本丸御殿跡
本丸御殿之図「信州松本城絵図」(正徳2年頃)から作成されたもの(『歴史のなかの松本城』P.27から)
本丸庭園の中に、瓦を使って仕切りをしてある部分が本丸御殿です。
右下の図は、本丸御殿の復原図です。主要建物は五棟、部屋数は60余り、建坪は830坪(約2,730平方メートル)。御殿の周囲をめぐる塀は長く続いて、西では天守側と北では内馬場側を区切っています。天守築造と同時に建設されたと推定されています。藩の正政庁で、城主の居館でしたが、享保12年(1727)閏正月朔日火事により焼失しました。
この時の城主は戸田光慈で、その前年享保11年(1726)、鳥羽から入封してまもなくのことでした。その後御殿は再建されることなく、城主の政務を司る場所は二の丸御殿に移りました。
御殿の南側には、御舞台、大書院、大広間等があり、能を鑑賞したり、評議をしたり、儀礼・謁見・接客等したりする所、また真ん中あたりには、御老中部屋、御用人部屋、御老中物書部屋等、藩の重臣達が執務をする場所になっていました。また北側には、御居間、御寝間、御近習番所等が配置されていて、城主の私生活をする場所でした。さらに北側には料理人等の部屋や物置が、玄関の北、東側には台所が続いていました。中庭の北には、「御時計ノ間」があり、和時計が置かれて時を計り、太鼓楼に知らせていたのではないかと考えられています。
二の丸御殿跡
二の丸御殿之図「信州松本城絵図」(正徳2年頃)から作成されたもの(『歴史のなかの松本城』P.27から)
本丸御殿と二の丸御殿は、文禄3年(1594)頃に竣工した天守に続いて建てられたと考えられていますが、「河辺文書」の寛永10年(1633)の記事に「二之丸江御殿立・・・」とあり、二の丸御殿の建造に松平直政(寛永10(1633)~寛永15(1638)年の間松本城城主)が関わっていたとも考えられています。
敷地は約1,900坪(6,270平方メートル)、建坪は約600坪(1,980平方メートル)、部屋数は約50ありました。本丸御殿があったときは、二の丸御殿は副政庁として機能していました。本丸御殿焼失後にそのすべての機能が二の丸御殿に移されましたが、本丸御殿の3分の2ほどしかなく狭いため、享保12年(1727)3月には、二の丸にあった郡所、町所を六九町へ、大名主・大庄屋の役人会所を上土に移しています。
正式の入り口は南側正面の式台と玄関で、東側のほぼ中間に内玄関がありました。式台から上がった左手に広間があり、その奥に書院とそれに付属する部屋がありました。規模は小さいですが、本丸御殿と同様の仕組みです。本丸御殿ではこの奥が政治向きの場ですが、二の丸御殿では藩主の居所になっていて政治向きの場は藩主の居所の奥に設けられています。政治向きの場には、年寄・用人・元鎮といった重臣がつめる部屋とその書記役等の部屋がありました。
台所は北東側に広がっていて、台所の水は掘り井戸と地蔵清水の井戸から樋により引いてきた水を溜めておく井戸がありました。
明治になり御殿は筑摩県庁として使われていましたが、同9年(1876)6月19日午前3時半頃出火して全焼しました。昭和54年から発掘調査をし、御殿跡を平面復元して見学できるようにしてあります。