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国宝に指定された天守五棟

大天守

  • 一階

    1. 天守の壁と下見板 松本城天守の壁の下部は「黒漆塗の下見板」で、上部は白漆喰仕上げである。下見板の役割は天守の屋根で防ぎ切れない雨水をはじき天守の壁を守ることである。当時は壁全体を白漆喰で塗ると雨によって崩れるリスクが高いので下見板が用いられた。下見板張りの天守の壁は50年の耐久性があったという。(白壁は15年くらいの耐久性といわれている)
      左の写真は、昭和の大修理の際切り取られた天守二階の壁である。厚さ約29センチ、壁の中心にはナルと呼ばれる木の枝を縄で絡げ、その外側に泥を塗って仕上げている。この厚さでは火縄銃の弾丸は通さない。天守の壁は、三・四階、五・六階と上の階になるほど薄くなる。
      外側の薄い壁は、明治の大修理時に塗り足したものである。
    2. 石落 石落は、石垣を登る敵兵に石や熱湯等を落したりかけたりして、天守を守る装置であった。戦いの主要武器が火縄銃となった戦国末期にはここから這い上る敵兵に火縄銃を撃ったと考えられている。松本城には渡櫓・乾小天守・大天守各一階に合計11か所の石落が備えられている。石垣の両隅と中間にある。内ぶたを開けると内部から約57度の傾斜をもつ石垣をみることができる。
    3. 天守一階の土台と武者走り 天守一階に、武者走りとそれより一段約45センチ高い母屋部分がある。母屋部分が高くなっているのは、土台を二重に入れたためである。床下をみると二重に組み合わせた土台が確認できる。
  • 二階

    1. 武者窓/竪格子窓(たてごうしまど) 3連・5連の竪格子窓が見られる。格子に使われている部材は13×12cmで、ここからも火縄銃を撃ったと考えられている。
    2. 木を継ぐ技術 舟形肘木(ふながたひじき) 梁を繋ぐときその部分が弱くなるので下から舟形をした材をあてて強化している。柱もいたるところで継がれており金輪継ぎ等の技術を見ることができる。
  • 三階

    1. 二重目の屋根の下に隠れ窓のない階 ここは乾小天守三階と同じく下から二枚目の屋根がこの階の周囲を巡ってつくられているため窓が作れない。隠し階とか暗闇重と呼ばれる。戦時は倉庫・避難所としてつかわれたと考えられている。
      手斧削りの貝殻状の「はつり紋」が美しく浮かび上がる。
  • 四階

    1. 御座所 城主が天守に入ったときはここに座を構えたと考えられている。ただし、客人の接待場所ではない。戦時に城主がここに籠る場合は天守も戦闘の最終局面を迎えることになる。三間×三間となっている。小壁をおろし、内法長押を廻している。
    2. 最も急な階段階段 四階の床と天井の間は4m弱ある。この高さの所へ、柱と柱一つ分の間に階段をかけるので松本城では一番急な61度の階段となる。松本城で最も急な階段である。
      ちなみに、大天守五階から六階への階段は、柱と柱二つ分の間に途中に踊り場を設けながら階段をかけてある。床と天井の間は、4m強である。この高さは四階のそれより約40cmほど高いが、柱と柱二つ分に階段が設置されているので、階段は四階ほど急にはならない。
  • 五階

    1. 作戦会議室 この階には、東西に千鳥破風、南北に唐破風が取り付けられ、室内には破風の間があり、武者窓から全方向の様子を見ることができる。三間三間の空間があり、戦いのときには、重臣たちが作戦会議を行う場所として考えられている。
    2. 柱の傷 明治30年代になると天守は傾き倒壊の危機が出たため、松本中学校長小林有也を中心として明治の大修理が、明治36年から大正2年までおこなわれた。この時傾いた天守に縄をかけて引き起こしたとの伝説があり、その縄の跡と伝えられる柱が五階北側にある。(明治34年に松本城天守閣保存会が発足し工事は同36年から開始)
      工事の具体方法は、昭和25年からの解体・調査報告によると、柱のほぞを切りながら高低を調整し床を水平にして傾きを直したと推定されている。
  • 六階

    1. 二十六夜神 元和3年(1617)松本に入封した戸田氏が祀ったとされる。月齢26日の月を拝む信仰。戸田氏は毎月3石3斗3升3合3勺(約500kg)の米を炊いて供えたという。関東地方に盛んであった月待信仰がもちこまれものと解されている。
    2. 桔木(はねぎ)構造 屋根裏を見上げると太い梁が井の字の形に組まれ(井桁梁いげたばり)、写真のように四方へ出て軒をつくる垂木の下に、さらに太い桔木が外側に向かって放射状に配置されている。これは天守最上階の重い瓦屋根の軒先が下がらないように支えるため、テコの原理を使った装置である。図のように屋根の中央部分の重量が力点にかかり、作用点は軒先ということになる。この仕組みは鎌倉時代の寺院建築から採用されている。乾小天守四階にも同じ桔木構造があるが、床面からの距離が乾小天守からのほうが短いため、その構造がはっきりと見やすい。
    3. 設計変更された勾欄 設計では図のように勾欄がつくはずであった。しかし信州の寒さ対策、風雨・雪対策等上から壁を勾欄の位置まで出して六階が作られたといわれている。

乾小天守

  • 一階

    1. 丸柱と角柱 大天守の柱はすべて角柱であるが、乾小天守には角柱とともに丸太柱が使われている。梁にも丸太が使われている。一階の中央にある管柱(その階だけの柱)は創建当時の栂の丸太柱である。一・二階の一番外側の柱(側柱)はすべて丸柱である。
      一・二階は五間×三間、三・四階は三間×三間である。一・二階側柱はすべて丸柱である。三・四階は12本の側柱のみで、すべて創建材であり400年以上たっている。
      乾小天守の柱と柱の間隔は、六尺一間で約182センチであるが、大天守のそれは、六尺五寸一間で約197センチの寸法で建てられている。
    2. 出桁(だしげた)構造の腕木 初重の屋根の垂木を受ける出桁を支えるために、太い腕木が一階天井隅に突き出ている。
  • 二階

    1. 水切の穴 武者窓の敷居中央に穴が開いている。これは武者窓を閉めている間に雨が降った場合雨水が敷居を伝わってこの穴に流れ込み、外に排出される仕組みである。
    2. 隅棟を構成する隅木 初重の隅棟を構成する隅木が柱を貫いて二階内部に飛び出している。飛び出した隅木の木口部材にカバーをかけてあるので写真のようなものが隅の柱に付けられている。
  • 三階(通常非公開)

    1. 真っ暗な階 乾小天守二重目屋根がこの階の周りを巡っているため、窓が造れない。大天守三階の構造と同様である。大天守三階は南に千鳥破風を設けこの武者窓から明かりを採っているが、乾小天守には明かり採りもなく真の闇である。
  • 四階(通常非公開)

    1. 花頭窓(かとうまど) 花頭窓は華頭窓ともかく。本来火灯窓。火を嫌うことから花頭窓あるいは華頭窓とかく。四階の北と西の二か所にこの形の窓がある。中国から鎌倉時代に伝えられた仏教建築の様式である。天守建築では格式の高い窓とされる。辰巳附櫓の南北にもこの窓がつけられている。
    2. 桔木(はねぎ)構造 大天守六階の屋根裏にも桔木構造がみられる。屋根裏を見上げると写真のように放射状に桔木が外側に向かって配置されている。これはテコの原理を使って天守最上階の屋根の軒先が下がらないようにするための装置である。図のように屋根の中央部分の重量が力点にかかり、作用点は軒先ということになる。この仕組みは鎌倉時代の寺院建築から採用されている。

渡櫓

    1. 天守入り口石の階段 渡櫓は二階建であるが地下一階が付いている。「がんぎ」(石の階段)を上がれば一階。江戸時代は石だけの階段だった。
    2. 曲がった梁 渡櫓二階の写真である。大天守と乾小天守とをつなぎ、自然の木をそのまま使用して梁として使っている。こうした自然のままの木の使用は強度の面ですぐれていると言われている。この梁側面に、はめこまれている銅版は、国宝松本城天守保存工事の経過を記したものである。
      こうした曲がった梁は、たとえば彦根・金沢など他の城でも使用されている。

辰巳附櫓(たつみつけやぐら)

    1. 石落のない一階 泰平の世になって増設された櫓である。一階の南側に立ってみると戦国時代であれば石落を作る場所であるが、板敷きとなっていて石落は設置されていない。この櫓は月見櫓を天守に付設するための連結の役割をもっていた。外側から見ると辰巳附櫓の南側は「側土台」上に持ち出して、櫓が築かれている。
    2. 柱の太さ 辰巳附櫓は、東西三間×南北四間の間取りで、大天守築造後に月見櫓とともに増築された櫓で、大天守の柱にその半分の太さの柱を添えた形に作られている。
    3. 花頭窓と水切 乾小天守二階で水切について、四階で花頭窓について説明済みである。乾小天守の項を参照されたい。

月見櫓

    1. 武備のない櫓、舞良戸(まいらど) 徳川家光は寛永11(1634)年上洛するがその帰り道、善光寺参詣を願い、宿城として松本城を宛てることになった。時の松本城主である松平直政は、急遽寛永10(1633)年から普請にかかったと伝えられている。しかし、家光は中山道木曽路等に落石があり来松しなかったという。
      戦いのない江戸時代初期に築造され、戦いに備えて造られて天守とは大きな違いがある。東西四間×南北三間で、月見櫓の北側、東側、南側の三方向が開口部であるが、柱と舞良戸という横に桟(さん)を打った薄い板戸だけの建物である。月見をするときは、この舞良戸を外し、畳敷きの部屋で東から昇る月を愛でたものであろう。
    2. 刎ね勾欄(はねこうらん)、船底天井(ふなぞこてんじょう) 月見櫓の三方を朱色の漆が塗られた刎ね勾欄が巡り、見るからに泰平な世の建造物であることを感じさせる。また、天井は、船の底のような形をしており柿渋が塗られて幾分赤みを帯びている。