渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓
渡櫓
天守入り口石の階段
渡櫓(わたりやぐら)は二階建てですが、地下一階が付いています。「がんぎ」(石の階段)を上がれば一階。江戸時代は石だけの階段でした。
曲がった梁
渡櫓二階の写真です。大天守と乾小天守とをつなぎ、自然の木をそのまま使用して梁として使っています。こうした自然のままの木の使用は、強度の面ですぐれていると言われています。この梁側面に、はめこまれている銅版は、国宝松本城天守保存工事の経過を記したものです。
こうした曲がった梁は、彦根や金沢など他の城でも使用されています。
展示品
昭和の修理で取り替えられた鬼瓦や和釘などの展示があります。昭和の修理では84,672枚のうち、62,276枚が新しい瓦になり、残りの22,396枚が昔のままの瓦を再利用しています。松本城は6家にわたって城主が交代しているため、色々な家紋の瓦を見ることができます。これによってどの城主の時代に修繕されたかが分かります。
辰巳附櫓
石落のない一階
泰平の世になって増設された櫓です。一階の南側に立ってみると、戦国時代なら石落を作る場所ですが、板敷きになっていて石落は設置されていません。この櫓は月見櫓を天守に付設するための連結の役割をもっていました。外側から見ると辰巳附櫓(たつみつけやぐら)の南側は「側土台」上に持ち出して、櫓が築かれています。
柱の太さ
右の幅広い柱が大天守、辰巳附櫓はその半分ほどの幅辰巳附櫓は、東西三間×南北四間の間取りで、大天守築造後に月見櫓とともに増築された櫓です。大天守の柱にその半分の太さの柱を添えた形に作られています。
花頭窓と水切
水切は、武者窓を閉めている間に雨が降った場合、雨水が敷居を伝わってこの穴に流れ込み、外に排出される仕組みです。
花頭窓は中国から鎌倉時代に伝えられた仏教建築の様式で、天守建築では格式の高い窓とされています。乾小天守の四階にもこの窓がつけられています。
展示品
辰巳附櫓二階では、故赤羽夫妻寄贈の兵装品を展示しています。壁には明治になって描かれた幕末ごろの松本城の様子が描かれた絵も展示されています。展示されている資料は以下のページでも一部紹介しています。
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月見櫓
武備のない櫓、舞良戸(まいらど)
徳川家光は寛永11年(1634)に上洛し、その帰り道に善光寺参詣を願い、宿城として松本城を宛てることになりました。時の松本城主・松平直政は、急遽寛永10年(1633)から普請にかかったと伝えられています。しかし、家光は中山道木曽路等に落石があり、来松しなかったといいます。
戦いのない江戸時代初期に築造されたため、戦いに備えて造られた天守とは大きな違いがあります。東西四間×南北三間で、月見櫓の北側、東側、南側の三方向が開口部ですが、柱と舞良戸という横に桟(さん)を打った薄い板戸だけの建物です。月見をするときは、この舞良戸を外し、畳敷きの部屋で東から昇る月を愛でたのでしょう。
刎ね勾欄(はねこうらん)、船底天井(ふなぞこてんじょう)
月見櫓の三方を朱色の漆が塗られた刎ね勾欄を施した回縁が巡り、見るからに泰平な世の建造物であることを感じさせます。また天井は、船の底のような形をしていて、柿渋が塗られて幾分赤みを帯びています。