住民が守った松本城
市川量造と小林有也
市川量造
市川量造
明治以降、主がいなくなった城を守ってきたのは、松本の住民です。
明治以降の天守の危機の第1は破却です。城郭破却という新政府の意向をうけて、多くの城郭が壊されていきました。松本城本丸・天守は明治4年(1871)10月に松本県から兵部省へ引き渡されました。明治5年10月の「信飛新聞」第1号には
「松本城内天守櫓入札御払下ケ仰セ出サレ代金二百三十五両一分永百五十文ニテ落札相成タリ」
との記事があります。明治6年1月に名古屋鎮台が設置されますが、それ以前から名古屋鎮台の設置にあたって松本はその分営の設置予定地となっていたため、ただちには天守の全面破却にはいたらなかったものと思われます。
この状況をみて立ち上がったのが市川量造(りょうぞう)です。市川は、天保15年(1844)、松本城下の下横田町に生れ、明治4年に藩から下横田町の肝煎・副戸長に任命されています。市川は同年11月に筑摩県あてに建言書を提出し、その中で、天守は壮構な建物で高いところからの遠望は人々の心を開拡するから、ここで博覧会を開くことは尤も適当な場所である、といって本丸・天守での博覧会開催を提案しています。そして、
「落札金員三百三十余両ハ、同志ヲ募リ献納イタシ、併セテ地租等モ相納可申候間、自今十ヶ年右破却ノ命ヲ弛、拝借被仰付様仕度」
と本丸・天守の借り受けを申し出ています。
この結果、博覧会は明治6年11月の第1回を皮切りに、明治9年まで天守をつかって5回開催されています。第1回目の様子を報じる新聞は、来場者が日々4・5千人を下らなかったと伝えています。今まで立ち入ることができなかった人々が初めて天守に入ったわけで、人々の関心を高めるに大きな効果があったと思われます。博覧会の開催があったため、天守の建物は破却されることなく残りました。
小林有也
小林有也
天守の危機の第2は、破損です。明治9年に筑摩県の消滅とともに博覧会も終わり、天守は管理が行き届かなくなりました。外装に傷みが目立ち出し、また石垣の中にあって土台を支持してきた柱が腐り、天守の傾きも生じてきていました。この第2の危機に立ち上がったのが、長野県松本中学校長小林有也(うなり)です。
小林は大坂府泉北郡伯太村の出身で、家は伯太藩家老を務めていました。松本に県立の中学校が誕生するとき校長として赴任しました。明治35年、二の丸にあった中学校に校庭拡張の必要が生じ、松本農事会が使用していた本丸部分がこれにあてられることになりました。この時、小林は破損が目立ってきていた天守の修理工事を行うことを訴え、時の松本市長小里頼永(おりよりなが)らと松本天守(閣)保存会を立ち上げました。そして広く人々から募金を集めて、修理に取り掛かり大正2年(1913)に終了となりました。小林はこの工事終了を見とるかのごとくして翌年亡くなりました。
明治期に、市川量造・小林有也という先人がでて広く住民に呼びかけ、賛同を得て保存・修理が成し遂げられたことは特筆されることで、この2人は松本城の近代の恩人として顕彰されています。
市民のかかわり
子どもたちによる床磨き
明治以降、住民が中心になって松本城を守り維持してきたことは、現代にも脈々と続いています。現在、多くの市民が松本城周囲の清掃活動に参加し、あるいは天守の床磨き活動に出て、日常の維持に努めています。また、増える観光客の皆さんに心地よく松本城観覧を楽しんでいただくおもてなしの気持ちをもって、案内ボランティアが幾グループも活動しています。
松本古城会という会も組織されていて、松本城が行う諸行事を支援し、松本城を愛護保全する活動や調査研究をし文化遺産への啓発活動や観光・文化・経済を向上させる活動をしています。この会から国宝松本城を世界文化遺産にしようという呼びかけがなされ、実行委員会が別に組織されて活発な活動がされています。