天守築造年代
天守築造年代に関する松本市の公式見解
松本城の創建年代については、諸説があります。昭和33年に文化財保護委員会が発行した『指定文化財総合目録 建造物篇』では、文禄3年から慶長初年とし、平成24年文化庁文化財部参事官(建造物担当)が発行した『国宝・重要文化財建造物目録』では、乾小天守を文禄元年、天守・渡櫓を元和初年頃としています。
松本市では、築城400年を迎えるにあたって平成元年に「国宝松本城築造年代懇談会」を組織し、金井圓東京大学教授(当時)を座長にして、松本城の築城年代の解明を行ないました。懇談会では、同時代の石川氏関係文書や、地元に残る系図・神社由緒・旧記・覚書・口碑などの資料を丹念に検討しました。
その過程で検討されたことは、
- 石川数正の代に箇山寺御殿(古山地御殿と同じ 石川時代にはこのように呼ばれた)が竣工した可能性が高いこと
- 康長の代に築城関係の伝承が集中し、天守築造作業の絶頂期は文禄3年と推定できる可能性がかなり大きく、永井系図のなかに「文禄二年二代目石川様に付き、御天守建てられ、奉行致し候、縄張の手がら致し、ほう美被下候」とあって、康長の代に天守が建てられた裏付けになること
- 小倉城、慶長時伏見城、駿府城、姫路城など短期間で天守があげられた例もあり、松本城が短期間で造られたとみても不自然ではないこと
- 乾小天守と大天守の柱間と用材の相違について、一般的に江戸間が古いといわれるが信濃において江戸間と京間の時期差については資料が少なく一概に新古をいうことができないし、石垣の造りは乾小天守も大天守も一体であることからみても、数正の時代に乾小天守ができ、康長の時代に大天守ができたとは考えられないこと
- 乾小天守に転用材が多く使用されていることに関して、旧深志城あるいは数正の築造した櫓などからの転用材が用いられた可能性が大きいこと
などの検討結果を踏まえて、「かなりの可能性を持つ推定事項」として次の点を答申しました。
天正18年(1590) 築城者石川数正松本入城 天正19年(1591) 二の丸箇山寺御殿建造か 文禄元年(1592) 天守築造者石川三長(注康長)襲封 文禄2年(1593) 石川三長入国、春より天守用木調達か。永井工匠天守縄張に着手か 文禄3年(1594) 三長天守竣工か。源池井戸制札立つ 文禄4年(1595) 宮村町武家屋敷、3月東町町人屋敷家作 これによって、確定的な史料はないものの、天守の築造は文禄2年から3年にかけて行われ、乾小天守・渡櫓・大天守が造られた可能性が非常に高いということを答申しました。現在、松本市の公式な見解は、この検討結果をもとにしています。これについても、全国の城郭の建築様式の比較再検討や年輪年代法による年代測定などの方法を用いて、さらなる検討を加える試みが現在進められています。
ここで、諸説についても触れます。それらは、根拠を提示してのものもあればそうでないものもあります。
天守の築造の着手について
最も早いものとして天正19年石川氏築造を唱えるものがありますが、多くは文禄2年ないし3年としています。竣工時期について
文禄4年説、慶長2年説、慶長5・6年説があり、乾小天守と大天守の築造時期を異なるとする説では、乾小天守を文禄期、大天守を慶長20年とする説もあります。