国宝指定と修理のあゆみ
国宝指定のあゆみ
松本城は昭和5年(1930)に史跡指定をうけ、昭和11年に国宝に指定されました。
この指定は昭和4年に制定された「国宝保存法」によるもので、現在の国宝と区別するため「旧国宝」と呼ばれることもあります。松本城が指定される以前には、昭和5年指定の名古屋城を筆頭に姫路・岡山・広島・福山・仙台・熊本・首里・丸岡・高知・宇和島・犬山・金沢・和歌山・松江・松山と指定がされていましたので、早い時期での指定ではありませんでした。
太平洋戦争の空襲などによって各地の城郭が失われたなかで、戦災や火災を免れた松本城は、昭和25年に新たに制定された「文化財保護法」によって、昭和27年に国宝指定を受けました。城郭では姫路に次いでの指定でした。この時、松本城は昭和の修理の最中でした。
修理のあゆみ
江戸時代の増築と修理
- 増築 石川氏の時代に天守が建てられ、城郭が整えられて以降、大きな作事がなされたのは、松平直政の代だといわれています。直政は大天守に付け足して、辰巳附櫓と月見櫓を建築しました。この結果、連結式と呼ばれる大天守と乾小天守が渡櫓で繋がる形式に、辰巳附櫓と月見櫓が付く複合式と呼ばれる形式が加わって、連結複合式という現在の天守の配置が完成しました。また現在はありませんが、黒門から石垣上を北に延びる多聞櫓もこの時造られたともいいます(異説は石川氏時代)。また、二の丸内に御城米を貯蔵するための蔵を2棟(八千俵蔵という)建てました。郭外になりますが、六九に大きな馬屋も設けられました。
水野氏の時代には堀田氏から引き継いだ時、傷みが激しかった二の丸にある辰巳隅櫓を修復したと伝わります。戸田氏が再入封した直後の享保12年に本丸御殿が全焼します。戸田氏は本丸御殿を再建しないで、二の丸にあった古山地御殿を拡張し、新御殿として使用します。これらが大きな作事でした。 - 修理 各所の修理も行われているはずですが、記録が乏しく全体を見通すことができません。江戸時代中期以降戸田氏の時代には、享保18(1733)宝暦8(1758)安永8(1779)天明元(1781)天明2(1782)享和2(1802)文化14(1817)文政9(1826)天保3(1832)天保13(1842)年に天守の修理が行われたことが記録されています。けれどもその具体的な内容は不明です。
- 増築 石川氏の時代に天守が建てられ、城郭が整えられて以降、大きな作事がなされたのは、松平直政の代だといわれています。直政は大天守に付け足して、辰巳附櫓と月見櫓を建築しました。この結果、連結式と呼ばれる大天守と乾小天守が渡櫓で繋がる形式に、辰巳附櫓と月見櫓が付く複合式と呼ばれる形式が加わって、連結複合式という現在の天守の配置が完成しました。また現在はありませんが、黒門から石垣上を北に延びる多聞櫓もこの時造られたともいいます(異説は石川氏時代)。また、二の丸内に御城米を貯蔵するための蔵を2棟(八千俵蔵という)建てました。郭外になりますが、六九に大きな馬屋も設けられました。
明治の修理
明治修理の状況
明治修理後の天守
明治維新となり天守が無用の長物になると、全国の城郭と同様に松本城も破却の危機を迎えました。しかし、かろうじてそれを免れたものの十分な管理下におくことがなされなかったため、瓦や壁が落ち出し下見板が剥げるなど傷みが進みました。この様子を見かねたのが城地内に建築されていた松本中学校の校長小林有也(うなり)でした。小林は松本の人々の賛同を得て「松本城天守(閣)保存会」を立ち上げ、募金を集めて修理にとりかかりました。
工事は明治36年(1903)から始まり、途中に日露戦争の時期をはさんで、大正2年まで行われました。関係した大工棟梁の一人には山辺学校の建築をした佐々木喜重がいます。工事の詳細記録は残されていませんが、内部石段の一部積み替えをし、新たに筋違を入れ、材を補いトラス構造を取り入れ、金具で締め壁を厚く塗り、天守の傾きを補正するという工事が行われました。その結果、窓が新たにつくられるなど外観に変化を生じましたが、傷んだ箇所の修理は完了しました。この時の経費は約8割が賛同者の寄付金で賄われました。住民の力が結集して完成した大修理でした。
昭和の修理
太平洋戦争が終わったのち、昭和21年秋に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民間情報教育局の美術顧問であったチャールズ・エフ・ギャラガ―が長野県内に文化財保存状況調査のため立ち寄ったさいに松本城の現状を視察しました。その結果、解体修理の必要を認め文部省に早期に着工するように勧告しました。
この動きを受けて、東京国立博物館保存修理課長大岡実や東京大学教授藤島亥治郎らが調査にあたり、地元でも昭和23年に「松本城址風致地区保存会」(のちに松本城保存会)が組織され、資金調達や文部省への陳情書の作成に協力しました。こうして、国の直轄工事として昭和25年6月8日に起工式を行う運びとなりました。
昭和25年 6月8日 起工式 8月 工事着手 8月15日 管理が松本市立博物館から松本城保存工事事務所へ移る 昭和27年 6月11日 釿始(ちょうなはじめ)式 昭和28年 10月3日 上棟式 昭和30年 10月1日 竣工式 10月8日 二十六夜神遷座 10月15日 松本城保存工事事務所から松本市立博物館城郭係へ引き継ぎ 昭和26年9月18日には松本市が呼びかけ姫路・松江市の参加で「全国城郭保存協議会」の設立準備会を開き、11月には全国の城郭所在都市が参加して姫路市で正式発足となりました。途中中断がありましたが、これは現在「日本城郭管理者協議会」となって活動しています。
昭和の大修理の大きな特徴は、全面解体修理を実施したことです。また、地質調査を行い、天守基礎を鉄筋コンクリートにしたこと、強度計算に基づき建物の補強に筋違ボールドを使用したこと、明治修理のさいに改変された部分を取り除き、さらに痕跡をたどって、江戸時代の姿に復したことです。
この修理に関しては、昭和29年『国宝松本城 解体・調査編』(松本市教育委員会発行)と昭和41年『国宝松本城』(松本市教育委員会発行)の報告書があり、別に修理工事事務の任にあたった竹内力が記した『国宝松本城 解体と復元』の記録があります。